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    You are at:Home»文化とアート»ブラントンとパーマー

    ブラントンとパーマー

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    By Glenn Scoggins on 5月 1, 2024 文化とアート

    短いアンケートにお答えください。あなたは馬車道から吉田橋を渡って伊勢佐木町まで歩いたことがありますか? 紅葉した銀杏並木が影を落とす、秋の日本大通りを散歩したことはありますか? 春にチューリップを鑑賞しに、横浜公園を訪れたことがありますか? 横浜港の船を眺めながら大桟橋埠頭をぶらぶら歩いたことはありませんか? インターネットで注文した商品が、海外から無事に船で運び込まれる入港の瞬間を願ったことはありませんか? 水道の蛇口をひねるときれいな水が出てくるのは当たり前だと思っていませんか? 最近トイレの水をきちんと流しましたか?(おっと、是非そうしてください)

    上記のいずれか一つでも当てはまるなら、草創期の日本に多くの功績を残したイギリスの土木技術者、リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841-1901)と、ヘンリー・スペンサー・パーマー (1838-1893)の二人に思いを馳せてほしい。スコットランド、アバディーン出身のブラントンは、明治維新の1868年に新政府の外国人顧問として横浜に到着した。それ以降の8年間で、泥だらけだった道路や、下水、頻繁な火災に見舞われた辺境の土地を、清潔で近代的な港湾都市へと変貌させた。パーマーは1885年から1893年までの8年間に、横浜港と桟橋を開発し、急速に成長する都市の住民に飲用水を提供するため、日本初の近代水道管システムを設計構築した。この街ではペットボトルの水を買う必要はありません。ただ蛇口をひねれば良いのです!

    ブラントンは灯台建設の技術者として雇われ、彼の監督の元、26基の灯台が太平洋沿岸にともしびを授けた。平均すると3ヶ月に1基の割合で灯台が建設されたことになる。北海道から鹿児島までどのような悪天候や未踏の地にも、ブラントン率いる彼らのチームは屈することなく立ち向かい、日本の地形に適合する新しい方法論を発明した。驚くべきは、そのうちの4基を除いて現在も稼働しているということだ。(これは上記質問の中のAmazonからの荷物が無事に配送される一因ともいえる)同じアバディーン出身の学者イアン・マローニーが近年出版した書籍『The Japan Lights』は、ブラントンが設計した全ての灯台を数年かけて訪れた記録だ。

    パーマーはインド南部のバンガロール(現在のベンガルール)に駐屯する英国陸軍の家庭に生まれ、伝統に従い1856年に英国陸軍工兵隊に入隊した。カナダのバンクーバーで最初の5年間を過ごし、ニュージーランド、バルドバス、香港で、測量技師や科学者として働いた。その後1885年に日本政府の上水道建設技術者として雇われ横浜にやってきた。当時、湾岸都市における人口の急激な増加により、とにかく真水の供給が不足していた。そのためパーマーははるばる山梨から真水を届けるため、複雑な工事計画の陣頭指揮にあたった。現在も保土ヶ谷区にある水道保存館を見学することができる。彼は最初の大桟橋の設計も手がけた。2002年に再建され、受賞歴のあるクジラに見立てたデザインが印象的な、観光スポットになっている。パーマーがイギリスから取り寄せた特徴的なライオン頭の蛇口は、桜木町駅の広場など多くの公共エリアを飾っていた。(駅舎内の展示も見てみよう)

    野心家で現実主義、頑固で無愛想。そんなブラントンは大英帝国の礎を築いたスコットランド人の代表格ともいえる。彼は当初の任務に満足せず、壊滅的な火災を被った横浜の街の再建に自ら取り組んだ。それにより道路は舗装され、排水が改善し、電信線の架設、そして馬車道と伊勢佐木町の間に、部材も全て国産のもので建設された初の鉄橋(吉田橋)が架けられた。ブラントンは大火の延焼を防ぐ防火帯として、見晴らしの良い広い区画に日本大通りを設計した。史跡として発掘された当時のレンガ造りの卵型下水管が、その近くに展示されている。現在スタジアムを中心とした横浜公園は、横浜に住む日本人や外国人の憩いの場となっている。その横浜公園の設計にも携わり、草創期の日本における近代的な街づくりに貢献したブラントンの銅像が、公園の東門で迎えてくれる。

    パーマーはブラントンよりもおだやかな性格だったが、野心は人一倍強かった。彼は横浜をモデルに、神戸・函館・東京・大阪の水道建設工事も指揮した。彼は第二の祖国日本で多くの功績を残した。そして王立工兵隊少将としての任務を退役し、結婚して54歳という若さで腸チフスにより亡くなるまでの間、東京で暮らした。野毛山公園にある彼の銅像は、横浜の街における彼の功績を讃えている。

    対照的に、短気で不愉快な性格だったといわれるブラントンは、しょっちゅう雇用主や同僚と喧嘩していたという。そのような理由もあり1876年に彼は解雇され、英国に帰国することになった。しかし彼が設計した灯台はその後も数十年に渡って、数えきれないほどの命を救ってきた。とっつきにくいが、心の中の情熱のともしびが消えることは無かったであろう博学者にグラスを傾けるなら、彼の名前を冠した中華街のクラフトビールバー「ブラントンズ」がピッタリだろう。それが、我々がたどり着いた答えだ。

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