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    横浜の開拓者たち: 高島嘉右衛門

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    By Glenn Scoggins on 9月 5, 2024 文化とアート

    「横浜の開拓者たち」シリーズ、最後にご紹介するのは、横浜の草創期における偉大な開拓者を称えるものだ。「横浜の父」と呼ばれるその男は、不屈の精神で非常に多くの分野で貢献した。高島嘉右衛門(1832-1914)は、かつて江戸の中心地でもあった銀座の材木商の第六子として生まれた。14歳で父親の事業を受け継ぎ、その5年後父親の突然の死によって明らかになった莫大な借金まで抱え、奔走することになった。1854年の安政の大地震と火災による壊滅的な被害で、再建のための木材の需要が緊急を要し、この新進気鋭の若者は、佐賀藩主と盛岡藩主の大名屋敷を再建して最初の富を築いた。野心的な若者にとって、危機はチャンスになることもある。

    1859年の開港で国際貿易が始まったことにより、高島は港町横浜で新たな富を築くチャンスをつかむ。佐賀で培った人脈から、伊万里の窯で作られた品質の良い磁器を西洋の新しい顧客に売り始めた。しかし、当時の通貨管理規則に違反し6年間の懲役刑となってしまう。1865年に釈放されると、転んでもただでは起きない実業家はすぐに新しい商機に向けて動き始めた。建設会社を経営して英国領事館を建設し、和洋折衷様式で横浜初の大旅館となる高島屋(百貨店の高島屋とは関係ない)を開業した。これは英国大使との外交の場に活用されると同様、彼のホテルのおもてなしを楽しんだ政府高官の社交場となり、そこで生涯にわたる友好関係が築かれていった。高島屋の常連には、将来の総理大臣となる伊藤博文や大隈重信もいた。

    1868年の明治維新後、新政府の最優先事項の一つは、東京の新橋と現在の桜木町にあたる横浜駅の間に、鉄道を敷設することだった。このルートには、外海と平沼を横断する海面埋立が必要で、現在の横浜駅は東京湾から埋め立てられた土地に位置している。盛土のため駅の北側の丘を切り拓く作業は困難を極めた。大隈は高島に陣頭指揮を依頼し、高島は3000人の労働者を雇って、わずか140日間で業務を完遂させ、1872年の日本初の鉄道開通に間に合うように線路を敷設した。彼が英雄伝説のように掘削した峡谷には、現在8つの鉄道路線が通っている。

    高島は晩年、北海道や日本各地の鉄道建設に尽力した。しかしながら、横浜における彼の功績は、一時期彼の名前を冠した7つの鉄道駅が誕生するほど偉大なもので、みなとみらい線と地下鉄ブルーラインがそれぞれ通る2駅と、JR貨物の貨物基地の駅の合計3つは現在でも存在している。

    高島の不屈の行動力は、激動の時代の横浜に日本初の、そして都心よりも2年早く、ガス灯を開通させた。かつて横濱瓦斯会社は、現在の花咲町にある本町小学校の敷地に建っていた。現在もガス灯と記念碑が残されている。(その会社は現在の東京ガスの前身となった)皇居にガス灯を設置した時、もしかすると高島は明治天皇が初めて出会った庶民だったかもしれない。彼は自社の船で北海道から石炭を運び、それは後に東京市街鉄道となる。その一方で、彼は教育にも関心を傾け、教育者の福沢諭吉と協力して横浜初の学校を設立するために私財を寄付した。

    実業家としての彼の成功がピークに達した1876年、高島台と呼ばれる高島町を見下ろす場所にある広大な敷地に突然引退した。相撲の番付表のように富豪をランキングする日本長者番付で、彼は5本の指に入る横綱であり、東京以外ではたった一人の横綱だった。30年経ってもリストに名を連ねたが、彼の職業を一言で分類するのは難しく、単に「億万長者」として表示されていた。

    高島の実績は、かつては越えられなかった社会階級の壁を越えて、明治時代に「貧民から富豪へ」のぼりつめていく、可能性を象徴するものだった。彼のたゆまぬ努力によって横浜のインフラは構築され、混沌の港町は近代都市へと変化していった。

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